物置小屋について

※ Art Anthropology 01号 2008年 掲載

川崎長太郎の文学作品において繰り返し描写され、度々その小説の舞台となる「物置小屋」の移築計画。

実際には取り壊されてしまっているため、この小屋を建てることは「復元」という言葉が適当かもしれないが、ここではあえて「移築」という言葉を使用する。「移築計画」にすることで、すでに存在しない物置小屋を再現するのではなく、あくまでも作品の中に現存する物置小屋を現実の世界におとしこむ、という通常の設計作業とは異なったアプローチをとることになる。

作品の中に現れる物置小屋やその周辺に関する描写には、多くの矛盾やあいまいさが含まれているため、決して真実の小屋に辿り着くことはないだろう。しかし、前後の文脈や、その他の作品などに張り巡らされている小さな伏線を読み取り、ゆっくりと、しかし確実に物置小屋の姿を頭の中に思い描いていく。その時、私たちは一人の移築家となって川崎文学の中に入り込んでいく。

移築作業の第一段階として、物置小屋移築計画に向けた設計文書を作成した。

◎敷地

神奈川県小田原市。小田原駅東口を出て、観光名所である小田原城の方角からは90度向きを変え、海風に導かれるように南下していく。左手に見える「だるま食堂」を横目にやりながら、さらに海岸へ向かって南下。波の音が聞こえるほど海に近い場所に物置小屋は佇んでいる。

◎周辺環境

東京まで延々と続く東海道(国道一号線)からもう一つ海寄りに、漁師や魚屋、その他各種の小店が軒をつらねる道があり、そこからさらに海側に入る。黒ペンキも赤茶けたトタン屋根の、二間半間口の母屋にはカマボコ職人の一家が住んでいる。そのボロ屋の横手を海の方に通っていくと、小さな植込み(木戸のつけられた割り竹の垣)のある庭を隔てて同じ地続きに建つ物置小屋の下に出る。東海道からは二十メートル弱。物置小屋というわりには異様に大きく、母屋の方はマッチ箱みたいに小さく見える。小屋を見た中山義秀は「辻番所みたいだ」とつぶやいた。

小屋の北側には母屋、南側には空地と防波堤、西側は軍部の指令で作られた幅十メートル長さ二百メートルばかりの道路があり、その反対側に小屋への入口がとりつけられている。

空地には小さな発動機船(小さな漁船、和船)が上げられており、よくおしめや腰巻きや着物などが干されている。往来一つ隔てた魚屋の飼犬であるクロが空地から小屋をのぞく。小屋から防波堤までの距離は六七間近く(十メートル、数メートル、二十歩ほどともいわれる)で、海岸へおりるコンクリートでかためた橋のようなものが、防波堤からゆるい勾配を見せながら下のほうへのび、つけ根に青いペンキ塗り二穴の小さな公共便所がある。毎日そこで用を足し、蛇口の水で洗顔のことも早めにかたづけていた。

◎外観/入口

古ぼけ、母屋よりも棟が高く、みかけだけ大きな物置小屋は、大正の大震災直後(関東大震災)に建てられたもの。屋根も外側も黒ペンキ(コールタール)を塗ったトタン板一式、二尺ほど廂が出た屋根は大分赤錆朽ち、すき間や小穴だらけとなっている。

道路と反対側になる小屋の出入口には、腐りかけた雨戸のような板が一枚はめこまれ、引き戸の仕組みでがたびし開閉されるようになっている。鍵はなく、戦時中に徴用された際には戸を釘付けにしていた。表札も郵便受けもないため、郵便物は五百メートルほど離れた弟の家に配達される。

◎内部構成

電灯、ガスはもちろん、水道すらついていない。

天井はなく、代りに板や棒が渡してあり、壁土も塗っていないトタン板剥き出しの内部は、ぐらぐら揺れる宙吊りの棚のようなもので上下に仕切られている。階下は黒砂まじりの土間で、漁師の家から預かった網や綱、古い錨、その他のガラクタがうず高く積んである。小屋に入るとすぐ、とり外し自在の頑丈な梯子段めいたもの(急勾配)があり、下足のまま登って上に達する。

上階の右手(北側、山側)には商売用の魚箱や樽などが埃をかぶったまま一杯に詰め込まれている。左手(南側、海側)の一部分には、表のささくれた赤畳(古畳)が二枚敷かれ、南側の壁には明かりとりの観音開きまがいな窓がとりつけられている。開口部の少ない小屋の中には魚の臭いが充満している。

◎二畳間

赤畳(破れ畳)の二畳間の中央には、木製ビール箱をさかさにして膝を入れる部分だけあけた机と、薄くなった座布団が敷かれている。蝋やインクのシミだらけでガタガタの机には、木綿の大風呂敷がかけられることもあり、その上には原稿用紙、ペン、インク壺、板切れに五寸釘をさして作った怪しげな燭台のようなもの、二十匁の太めのロウソク(一匁=3.75g、一本十二銭)、安煙草の「暁」、吸いかけの煙草を入れたソバ色の湯呑茶碗、火をつけるためのマッチ、紙幣の入った袋、文を読み書きする時に用いる老眼鏡がおかれている。火鉢や電灯がないため、明かりや暖をとるのはすべてロウソクでまかなっている。

二畳間の隅のほうには、先輩や同人雑誌仲間から贈られた小説本や雑誌、文庫本の万葉集などが二十冊ほど重なり並び、その中には雑文の切り抜きや大小とりどりの写真類も含まれている。小屋の構造となる杉の丸太柱には額縁入りの「モナ・リザ」、甥の描いた「蜜柑畑の向うに狐色した山肌のみえる風景画」(半年以上)と、二枚の地図がピンでとめてぶら下げてある。

右手には木目の浮いた板戸で目隠しした一間の押入れがあり、敷布団、亀甲型が青く染まった綿毛布、手拭でくるんだ坊主枕、柳行李、針仕事道具、雑誌の束、原稿などが押し込められている。戦後には乾パン、白米、サラの作業着やゴム長まで入っていた。雨の日には、屋根や周りにあいた穴から雨漏りするため、逃げるようにして押入れの中にもぐり込み、布団や行李の上へ身を横たえる。

◎窓

物置小屋の唯一の外部装飾となっている大きな窓。南側に取り付けられている観音開きのトタン板を左右に開けると、おしめ、コンクリートの防波堤の頭越しに、水平線の広々とした海が一望される。夜には月の光が赤黒い古畳にさしこんでくる。

以上のように、川崎の作品中に描写された物置小屋に関する情報をまとめると、すぐにでも移築可能のように思える。しかし、外観の正確な大きさなどの肝心な部分が抜け落ちているため、そこをどう調査し、解釈していくかが本計画の最重要点である。

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